
東京 落合にて
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1903年〜1951年
『一切合切が、何時も風呂敷包み一ツの私である。私は心に気弱な熱いものを感じながら古い詩稿や、放浪日記を風呂敷包みから出しては読みかえしてみた。体が動いているせいか。瞼のウラに熱いものがこみあげて来ても、詩や日記からは、何もこみ上げて来る情熱がこない。たったこれだけの事だったのかと思う。馬鹿らしい事ばかりを書きつぶして溺れている私です。』
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生きた女性
芙美子は、鹿児島時代はほんのわずかであり、大正五年の五月に尾道にたどりつくまで、不明な点は多いが第二尾道尋常小学校五年に編入する事になる年齢からすると、二年遅れの事になるが、そこで早大卒の小林正雄の存在が(担任)彼女に大きく作用したのです。彼が芙美子の文学的才能を誰よりも早く認め、今井先生の彼の強いすすめにより、尾道市立高等女学校(現・尾道東高校)に進学することになる。
これは当時、彼女の生活レベル(階層)としては、ほとんど異例のことであった。先生がいたからの特例である。
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小学校卒業当時 |
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山日新聞に短歌の投稿を始める
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ペンネーム秋沼陽子
彼女の作品の中で『市立女学校』がある。疎外された悲しくも孤独な女子学生を描いているが、実際の所、芙美子のまわりはとても明るく、笑い声が絶えることがなかったらしい。内面には、確かにそのような思い、心の動きがあったのも確かであろうが……彼女自身としても先生には恵まれていた人であったろう。国語教師の二人の彼女の文才が改めて認められる。それは作品作りに大きく目覚め、秋沼陽子のペンネームで地方新聞に詩や短歌をのせる文学少女にまでなっていく。この時代に国語教師の小林正雄のすすめにより、芙美子とペンネームを決め『放浪記』の原型ともなる『歌日記』と題する作品を書き始めている。
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東京に出る前日 |
芙美子は大正十一年東京に出る。そして芙美子は十五年、尾道の両親のもとに帰り、ここで『風琴と魚の町』の第一稿を書く。
この時の芙美子の心理状態は作家が作家たる由縁の嫉妬と屈辱と孤独感の真っただ中であったろう。それがあの日の語葉につながるのだ。
食えない東京時代
彼女は『歌日記』をはじめ精力的に作家活動した。帰りの電車賃がないときは歩いても帰っていた。時には速達を送り返された原稿が彼女より先に着くことさえあった。
そして昭和三年芙美子の文運の開けることになる年である。 |
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